色のない世界

ある大学の先生がこんな話をされていました。

自分の講義を熱心に聞いてくれる女の子の三人組がいた。ある日を境にその中の一人の姿がみえなくなった。後の二人にあの子はどうしているのか、と尋ねてみると、その女の子の父親が亡くなったのだという。パパっ子だった彼女にとっては相当にショックな出来事だったようで、その後もしばらくは、大学で彼女の姿を見かけることはなかった。数ヶ月後、彼女の姿を構内で見かけたので、「大変だったね」と声をかけると、「父が亡くなってしばらくは、世界の色の一切がなくなってしまった、最近になってようやく世界の色が戻ってきた」と、彼女は語った。

深い悲しみの中にある時には、時間がその悲しみのポイントから静止してしまったように感じることがあります。先日「夏の時間、冬の時間」のところでも書きましたが、時計の針が刻む外側の時間、クロノス的時間は、変わらずに時を刻んでいるのに、内的な時間、カイロス的時間はあるポイントで止まってしまうんですね。そして、その静止してしまった世界は、色味がない、味気ない世界だったりする。

世界がモノクロに見えるというのは、病理的にも確認されている症状なのだそうですが、それっていうのは、時間というベクトル、時間軸の中に閉じ込められてしまったような感じなのではないか、と思ってみたりもするのです。そこには、様々な色の粒を作り出す光が差し込んでこない、だからモノクロの世界。その人のカイロス的時間がクロノス的時間と連動して、動き出すと、時間軸の外に出ることができて、そこには光が織りなす数々の色がダンスしている、なんだかそんなイメージ。

でも、悲しいことが起きた時に、悲しみを体験しないのがいいことか、というとそうではないような気がするのです。悲しみがないようにふるまっても、歴然と悲しみはそこにあるのだと思います。色のない世界は味気ない世界ではあるけれど、時間という枠はその中に入り込んでしまった時にはその人を守る枠にもなりえます。「日にち薬」といった言葉もありますが、悲しみを体験しつくすには、一定の外側の時間の経過が必要なのだと思います。

実のところをいうと、亡くなってしまった人にとっては「この世から去る」ということは、必ずしも「悲しい」ことではない、というか、悲しいことでない方が望ましい、悲しいことだと、それはカルマになって、すぐには光に戻れませんからね。でも、生きている人にとっては今まで存在していた人の「不在」は個人差はあったとしても、悲しいことなのです。
先ほどの大学生の女の子は、時間をかけて悲しさを体験して、体験しつくして、色のある世界に戻ってきたんですね。

喜怒哀楽、そのすべてを味わうために肉体があって、「素の魂」は地球という星を旅しているのです。

追記
ミッフィーの生みの親、ディック・ブルーナさんが亡くなられたようですね。子どもの頃から彼の使うミニマムな色使いが大好きでした。ご冥福をお祈り申し上げます。


[PR]

by sound-resonance | 2017-02-18 12:30 | 音・色あれこれ | Comments(0)