聖なる予言
ということで、家でぼーっとしていた時にふと目についた本。たぶん、どこか旅先で、暇にあかせて街をぶらぶらしている時に見つけた古本屋さんで買ったものだと思いますが、旅先で読むことはせず、家に持ち帰ってそのままになっていたもの。「聖なる予言」、日本語版は1994年に初版が発行されていますが、原著はその1年前1993年に発行されています。いわゆるニューエージというか、スピリチュアルな内容なんですが、人間の意識の変革の過程を9つの「知恵」を探しながら体験し、学んでいく冒険小説のようなスタイルで書かれています。
主人公は長年音通の途絶えていた古い友人から突然の連絡を受け、南米ペルーで発見された古代文書について教えられます。そこには、人生の意義、これからの人類が進む意識の過程について書かれているといいます。主人公は、駆り立てられるようにペルーに向かいます。ペルー政府、および教会は、これまでの教義を否定する危険文書として、この古代文書の抹殺をもくろんでおり、古代文書の「知恵」を探す主人公も、数々の危険にさらされながらも、適時適所に導かれ、9つの「知恵」をひとつひとつ、出会った人達に教わり、体験し、学んでいくのです。
先日、ニューエージ風にいうと、時代は魚座から水瓶座の時代に移行していて、魚座の時代を象徴するのはイエス・キリストであるといった話をしましたが、この小説の中でも、キリスト教の教会(神父)が9つの知恵の書かれた古代文書を危険文書として抹殺しようとしている、古代文書の最大の「敵」として描かれているのが興味深いな、と思いました。冒険に敵はつきもの、敵が大きければ大きいほどはらはらどきどき引きつけられるので、この辺りはエンターテイメント小説としての演出としても成功しているなとも思うんですが、キリスト教会(神父)は、古代文書の知恵を迷える子羊である大衆を惑わす悪書として誤解していて、真実としてはキリスト教の教義をもおびやかすものではない、という説得を主人公はその友人と共に試み、この小説の中では失敗します。神父の側には、一人一人の人間がこれまでとは全く異なった意識に目覚められると、これまで教会としてまとまっていたものがまとまらなくなるという恐怖があるわけです。しかしながら、イエス・キリスト本人は、新しい意識の変革を遂げた初めて、あるいはごくごく初期の人間であり、それは「神の子」のみならず、誰にでもできることなのだ、といったことを主人公は古代文書を通じて学んでいきます。古代文書の知恵は、イエス・キリストの意志ともなんら矛盾するものではないのです。
この本が初めて出版されたのが1993年、ちょうど、インターネットが普及しだしたタイミングとも重なっています。この辺りから水瓶座の時代はじょじょに幕をあけたといえるのかもしれません。
by sound-resonance | 2017-12-09 15:05 | 観る・読む・聴く