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偶然に出会う

「愛情というきれいなものにも、装身具や宝石にも、硝子にも貪婪な私は、だから決して現実の世界で愛情を手に入れようとしないし、むろん装身具や宝石、硝子も同じで探さない。偶然に出会うだけだ。」

森茉莉さんのお言葉。
探し出すと切りがない。私も、このくらいの心構えでいきたいものだ・・・
でも、これって「貪婪(どんらん)」が故なんですね・・・・(笑)
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by sound-resonance | 2015-01-31 11:44 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

いまさら、アナ雪

「アナの雪の女王」、去年めちゃくちゃヒットしましたね。あまりにも巷で「ありの~ままで~」とか「レリゴ~、レリゴ~」とか聞くもんで、一応円滑な人間関係を保つために(笑)さらっと見てスルーしてましたが(笑)、この映画も先日取り上げた「魔女の宅急便」と同じく、自分の才能との向き合い方がテーマの映画ともいえると思います。

この映画って、主人公が2人いて、お姉さんのエルサが王位継承権の持ち主、かつ雪と氷に関する魔法の力を持っています。妹のアナには、そういう能力はなくて、お姉さんが大好き。二人が小さい頃一緒に遊んでいる時に、エルサの使った魔法の力で誤ってアナが死にかけたことがトラウマになって、エルサはアナを避けるようになります。

エルサの戴冠式の日、アナが出会って一日の王子ハンスと結婚するというのを聞いて、エルサはそれに反対し、口論になった末、エルサは魔法を爆発させてしまい、常夏だった王国は雪と氷に覆われてしまいます。

自分の力をコントロールできず、周りの人から恐れられることに耐えられずに、エルサは王国を去り、自分のための氷の城を建て、その中で、自分一人で生きていこうと決めます。

ここで、あの有名な「レリゴ~」なわけですが。

あの曲って、どうしてここまでヒットしたんでしょうね。

Let it go
そのままで行こう、あるがままに行こう。
これが「ありのままで」に訳されるのには、何の問題もありません。

でも、この曲って、映画のストーリーの中盤に流れる曲で、そこから次の展開がまだまだあるんだ、ということに着目する必要があります。

悦月さんが、英語と日本語の歌詞の対比を載せていらっしゃいますが、英語の歌詞って、おおざっぱにいうと、

「私は、こんな奴やから、これでいくわ、それで一人になったってええし。それで自由になるんやったらそっちの方がええわ。人の理想に合わせるなんてまっぴらやし。嵐も吹けば?全然寒くないし!」

って、なぜか関西弁になってますが(私が感情移入しやすいから、ですね・(笑))、自分の力を認めて、自立する、一人で生きていくっていう宣言は素晴らしい、でも、若干逆切れの匂いが・・・(笑)この時点のエルサの中には「他の人」の存在が一切ないわけですね。
人に気を遣って、自分を出さないように自分を小さく小さく見せている、その時点から、自分を見せていこう、自分のパワーを認めていこうっていうのは立派な前進です。
たぶん日本ってすごく狭い国で、人に協調する、合わせるっていうのが一番の美徳みたいになってるから、人と協調することを第一に置きつつストレスをためている人も多いんでしょうね。そこにきて「ありの~ままで~」とか言われたら、そりゃあもう、「ああ、ありのままでいいんだ!」って飛びついちゃった人も多いかもしれない。でも、この歌って、ありのままを、他の人に見せても、今まで素の自分を出せないで傷ついてた私も含めて、丸ごとそのまま受け入れてくれる、っていう歌ではないような気がします。

エルサの次のステップは、自分のパワーを受け入れつつ、他の人達とどう共存していくのか、ということ。

氷の宮殿を訪ねてきたアナは、エルサに王国を元の夏の王国に戻してほしいと頼みます。そんなことできない、とエルサ。できる、とアナ。できない、できる、できない、できる、という応酬があって、またもや魔法が暴走。アナの心臓に当たってしまい、アナは宮殿から追い出されてしまいます。

アナは、身体が凍り付き、命を失う運命に。それを救うには「真実の愛」が必要。

ここで、これまでのおとぎ話同様、王子様が登場して、真実の愛=キスで、彼女の魔法は解けるという展開になるのかと思いきや、アナと結婚の約束をしたはずのハンス王子は、アナのことをちっとも愛しておらず、王位をねらっていただけだった、ということが発覚。

アナ、ショック!
でも、雪だるまのオラフから、愛とは自分のことよりも相手のことを思い遣ることだと教わったアナは、身を挺してハンスに殺されそうになっていたエルサを助けます。

氷の彫刻になってしまったアナ。
でも、アナの決死の行動によって、エルサが、真実の愛こそが魔法をコントロールする方法なのだということに気づいた時、アナは命を吹き返すのです。

魔法は、「恐れ」ではなく、相手のことを心から思い遣ること、真実の愛によって、コントロールできる。
エルサは、王国に帰り、夏を取り戻しました。彼女は、魔法をコントロールしながら、人と共にある術を知り、次のステップに移ったのです。

「魔法」は、「才能」に置き換えても、意味が通じると思います。

ディズニー映画が「true love」っていう度に、なんだか、背中がむずがゆくなるような思いをしていた私ですが・・・(笑)愛にもいろいろなバリエーションが出てきましたね。

愛って、私たちが元々はひとつであることを思い出すということだと思います。そこには、自己と他人の区別はありません。それが「相手を思い遣る」という言葉で表現されていると思います。
でも、それって、自分のことよりも、他人のことを常に優先させるっていう意味ではないと思います。それでは、地球に一人一人の個性と肉体を持って生まれてきている意味がないからね。
そして、常に他人のことを優先していたら、自分のことは誰かが愛してくれるっていう意味でもないと思います。人のことを愛するように、自分に向ける愛も大切に、ね。
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by sound-resonance | 2015-01-29 07:12 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

魔女の宅急便

引き続き映画ネタです。
このところの「ラプンツェル」祭りで「魔女」について考えていたからかどうか、改めて「魔女の宅急便」を見る機会がありました。
原作は角野栄子さん、スタジオジブリのアニメーション映画で有名ですね。

主人公のキキは13歳の満月の夜、魔女修行のため、まだ魔女の住んでいない町を目指します。新しい町を見つけたキキは、そこで1年間、自活しながら魔女修行をする必要があります。
どうやって自活するか。
自分の才能は「飛ぶこと」だと思ったキキは、その才能を使って、宅急便の仕事を始めます。

社会人の視点から見たら、最初の頃の彼女の仕事っぷりって、「その仕事、あかんやん」ってつっこみどころ満載で、はらはらしっぱなしです。例えば、猫のぬいぐるみの入った鳥かごをカラスにおそわれて、ぶんぶんふりまわして(かご、汚れるやん)、中身の猫をなくして(!!)、相棒のジジを身代わりにして、探しに行くところはぎりぎり許すとしても、見つかった猫のぬいぐるみは首がとれかけていて(!!!)ウルスラがいくら綺麗に繕ってくれたっていっても、それはもはや「破損品」ではないのか、とか、奥様がパイを焼けなくて困っているところを旧式のかまどに火をおこして焼いてあげたのは、偉かったにしても、雨に降られてびしょびしょのパイを届けて、「それ、ぬれてるじゃない」って言われて「中身は大丈夫」って、いや、たぶん中身もやばいし・・みたいな・・・まあ、13歳だし、天候については、彼女のせいではないんだけど、それでも、なんだか、見事な甘ちゃんっぷりです(笑)

でも、ある瞬間から彼女は「飛べなく」なります。

当たり前のようにできていたことが、できなくなる、これってものすごく怖いことですよね。

子どもの頃って、できなかったことができるようになる、知らなかったことがわかるようになる、ことの連続で、「できなくなる」ことってめったにありません。
当たり前にできてたことって、当たり前にできてたから、いざできなくなると、「どうやってやってたか」っていうのがわからなかったりします。
キキも「どうやって飛んでいたのかわからない」って画家であるウルスラに打ち明けています。

飛べないと、宅急便の仕事ができない。でも、宅急便の仕事以外の仕事を見つけて、自活できていけばそれでいいのか、といえばそうでもない。飛べないっていうことは、彼女にとって人生のすべてが楽しめないということ、すべてを失うということ。それが、「才能」で、それをもって生活するということが「生業」なのかな、と思ってみたり。

魔女は魔女の「血」で飛ぶ、と言うキキの言葉に「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かががくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ」とウルスラは答えます。
ちなみに英語では「血」が「spirit」と訳されていて、どっちがわかりやすいかは別として、どちらにしても、自分自身と切っても切り離せないもの、なんでしょうね・・・

彼女が「飛べなく」なったきっかけはなんだったのか。
それは「嫉妬」だと指摘してある本があって、どきっとしました。

自分と同い年なのに、「働く」必要のない女の子達への嫉妬?
いや、人を何十人も乗せて、自分より何十倍も役に立つ飛行船への嫉妬。

子どもの頃の「自分はできる」っていう全能感の世界から飛び出して、人やモノとのかかわりの中で、何かと自分を比較することで、自信をなくし、自分の立ち位置を譲り渡してしまうということが、才能を失うということ。

では、彼女が再び飛べるようになったきっかけはなんだったのでしょうか。

原作にはないエピソードのようですが、飛行船の事故で危機に陥ったトンボを救うために、彼女は飛びます。助けたいという心、それがその時点で、友情だったのか、愛情だったのかはわかりません。でも、一つ言えることがあるとしたら、人は、人とのかかわりの中で、才能を見失うこともあるけれど、同時に人とのかかわりの中で、才能を再発見する可能性を秘めているということ。「比較」から抜け出て、その瞬間に自分に何ができるのか、に真剣にフォーカスすること、それが、才能を本当の意味で「自分のものにする」「制する」ということにつながるのかもしれません。
才能って、人と人とが関わるためのツールで、その中で磨かれていくもの、なんですね・・・

再び飛べるようになったキキは、再び宅急便の仕事を始めます。たぶん、これまでの「なんとなくやる」感じからもう少し意識的な仕事っぷりになるんでしょうね。

この映画って、子ども向けにみえて、仕事をしている大人にかなり共感できる部分があるんじゃあ・・・!?考えてみると、「ルージュの伝言」とか「やさしさに包まれたなら」とかユーミンの歌使ってるってことは、案外ターゲットは、大人なのかもしれないですね。キキは13歳で、子どもから大人への成長っていうテーマもあるのでしょうが、大人になってからも、こういう危機って、仕事をしていると、周期的におそってくるもので、見舞われている最中は、絶望的な気分に陥ったりもします。でも、それを、次のステップに向かうチャンスなんだととらえることもできるのかもしれませんね。失われたものがあったとしても、必ず次の何かがやってきます。ゆっくり、時間をかけて、人生を信頼しましょう。自分に対する愛も忘れずに、ね。

魔女の宅急便(1989)
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by sound-resonance | 2015-01-27 07:07 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

塔の上のラプンツェル

今月は、「ラプンツェル」祭りでございます(笑)
このところずーっと「ラプンツェル」のことを考えて書いてばっかりいましたが、何かの参考になるかと思い、2010年のディズニー映画「塔の上のラプンツェル」を見てみました。
でも、この映画、原作(グリム童話)から随分お話の設定を変更してありますね。

まず、ラプンツェル(ちしゃ菜)が出てこない(笑)
映画では、魔女が、持っているのは、黄金の美しい花ということになっていて、その花は、万能のパワーを持っています。魔女は、その花のパワーで若さと美貌をキープしています。
子どもを授かったのは、王国の王様と王妃で、王妃の病気を治すために、魔女が持っている万能の花を家来が取ってくることになっています。
万能の黄金の花のおかげで、王妃の病気が治り、夫婦の元には無事に女の子が生まれます。
王も、王妃も、「盗んで」はいない。魔女が黄金の花のパワーを「独り占め」してたから、仕方なく、家来に持ってこさせたのだ、という設定。王妃も、一言も「欲しい」なんて言ってない、と。原作の「最初に盗んだのって、夫婦の方なんじゃぁ・・・??」という素朴な疑問を徹底的に打ち消す設定です。あくまでも、「独り占め」してた魔女が悪い。その上、生まれてきた女の子をさらっていくなんて、どういうことさ?と。
ちなみに魔女が女の子をさらっていったのは、彼女の髪の毛が、黄金の花と同じパワーを持っていたから。髪を切ると、パワーが失われるため、魔女は、女の子ごとさらっていきます。そして、彼女を塔に閉じこめて、彼女の髪をすくことで、若さと美貌をキープします。
ラプンツェルが出てこないのに、なぜかラプンツェルと名付けられた(笑)女の子は、18歳まで塔の中で過ごします。外は危ない、塔の中しか安全な場所はない、と魔女に教えられてはいますが、「外の世界」に対する憧れは強くあって、明るい活発な女の子に育っています。
そこへやってくるのが、王子様、ではなくて、大泥棒、フリン。王国から、さらわれた王女のティアラを盗んで、逃亡中に塔を発見、彼は、ラプンツェルの髪の毛をつたってではなくて、自力で塔を這い登ってきます。
ラプンツェルは、下界からやってきた彼を即座に危険人物と認定し、フライパンで打ちのめし、ティアラを隠し、自分を外に連れ出せ、と彼に要求します。外に連れ出してくれたら、ティアラは返してあげるわよ、と・・・・・・
初めてみる、魔女以外の人間に、この要求・・・・強い、強すぎる・・・・どこで習った!?この交渉術・・・・・さすが、生まれながらにしての王女・・・(笑)この時点では、二人の間に恋愛の香りはみじんもありません(笑)ちなみに泥棒が盗んできたティアラって、ラプンツェルのものですが、この時点では、二人とも、そのことを知りません。

ラプンツェルがどうして外に出たかったかというと、なぜか自分の誕生日の日に遠くの方で上がる無数の灯りの正体を確かめたかったから。この灯りって、魔女にさらわれてから行方不明になっている娘を偲んで、王国の王と王妃(そして国民)が彼女の誕生日に上げている灯りだったりするんですが、どっちにしても、「外に出たい理由」が設定されていて、ラプンツェルは、魔女に追い出されるのではなくて、あくまでも「自分の意志」で外に出るわけですね。
泥棒も、しぶしぶ彼女の要求を受け入れ、行動を共にするうちに、彼女の天真爛漫で、活発で明るい人柄に惹かれていきます。

彼女達が「灯り」を見にいくまでにいろんな冒険があるけれど、そこは省略(笑)

さて、ラプンツェルが塔にいないことを知った魔女は、彼女を追いかけ、再び塔に連れ戻すことに成功します。
フリンは、魔女にさらわれたラプンツェルを追いかけて再び塔に到着、ここで初めて、彼は、ラプンツェルの髪の毛を伝って塔の中に入ることになりますが、そこに待ちかまえていたのは、魔女。ラプンツェルは、魔女によって自由を奪われています。ラプンツェルは、自分は塔に残るから、フリンを助けてあげて、と魔女に頼みます。その愛に応じるかのように、フリンは、自分の命をかけて、ラプンツェルの髪の毛を切ることで、彼女を助けます。
髪の毛は、切ってしまうと、万能の力を失ってしまい、魔女は、絶望して、髪の毛に足をひっかけて、塔から落ちて、死んでしまいます。原作では、どうなったか、誰もしらない、みたいな感じで、生きてるとも死んでるとも書かれてませんが、あくまでも、悪者の映画上の魔女は、あくまでも死なないといけないみたいですね・・・・
で、一旦死んじゃったかにみえたフリンは、自由になったラプンツェルの流す涙によって、命を吹き返します。
そして、二人は、王国に戻って、両親とも再会し、めでたし、めでたし。
たぶん、将来は二人で王国を継ぐんでしょうね・・・・・

と、あらすじを追っているうちに自分が何を書きたかったのか、イマイチよくわからなくなってきましたが・・
要は、原作とは随分設定が違う、っていう話でしたね・・・(笑)

原作でのラプンツェルは、13歳で王子様に出会うまで、外の世界のことを何も知りません。詳しくは書かれてはいないけれど、「外に出たい」とも思っていないように思えます。王子様に突然出会っても、とまどいながらも、彼を受け入れちゃってます。あくまでも、受け身、なわけですね。
一方の、映画のラプンツェルは、魔女の言いつけを守って、外には出ないものの、フリンに会う前から「外に出たい」という自分の意志を持っています。外部からの敵はやっつけるだけの機転もあります。最初から能動的、なわけですね。
で、原作のラプンツェルが、塔から「追い出された」のに比べて、映画のラプンツェルは、自分で外に出る方法を見いだして、出ていきます。その年齢が18歳に引き上げられているのも、現代的ですね。

それにしても、映画のラプンツェルって誰が「共感」できるように設定してあるんだろう・・・フリンも、最初はうんざりしながらも、泣いたり笑ったり、はしゃいだり、落ち込んだりのラプンツェルの「等身大」っぷりに惹かれていくわけですが・・・・21メートルもある髪の毛ひきずって、18年間も、魔女とカメレオン以外の誰にも会わずに、塔に閉じこめられてて、あんな明るい性格って、ありえないと思うのだけど・・・・
ま、それは言うだけ野暮ですね・・・(笑)

塔の上のラプンツェル(原題Tangled)2010
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by sound-resonance | 2015-01-25 19:22 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

今年初めての新月

今日は新月ですね。
22時14分に新月タイムに入るようです。
水瓶座の新月なんだとか。
水瓶座というと、クリエイティビティとか、開拓者、みたいなイメージがありますね。
他人にふりまわされることなく、自分の才能を開花させるためのお願い事をしてみるといいかも。

年があけてから、これ!といった動きが全然できておらず、あっという間に1月も後半に突入したことに今更ながら気づき、あたふたしている私。
私にとっては、今日が今年のスタート、みたいなもんです。
うん、そういうことにしておこう・・・・・(笑)

今年、こうなりたい私を思い浮かべながら、新月に瞑想でもしようっと♪
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by sound-resonance | 2015-01-20 19:19 | 音・色あれこれ | Comments(0)

魔女について

このところずーっと「ラプンツェル」のことを考え続けていた私。その中に出てくる魔女について、もしかして、実の母親だと残酷すぎるから、「魔女」という「他者」にスライドされている部分があるかもしれない、ということは先日書きました。
魔女=母親と設定したところで、魔女そのものについての記述があいまいになってしまった感があるので、今回は、魔女について、これも自分の防備録的な感じで書いてみたいと思います。

Wikiによると、ラプンツェルって「妊婦が食べるとよい植物」なんだそうで、妊婦だったラプンツェルの産みの親が、妊婦故にどうしても食べたくなったのは、仕方のないことだったのかもしれません。インナーチャイルドカードに描かれている畑には、ラプンツェルしか生えてないように見えるけれど、本当は魔女は、そのほかにも様々な野菜を植えていたのかもしれない。野菜とか、ハーブとか。どちらかっていうと、野菜畑というよりは、ハーブ園、薬草園みたいなそんな感じだったのかもしれません。
医学、なんてものが発達していなかった頃には、ちょっとしたお腹痛とか、怪我とかをそういった薬草で、癒していたのかもしれない。
それは、自分のため、だけではなくて、近所に住んでいる村人達も、魔女に薬草を分けてもらっていたかもしれない。もしかすると、「雨乞い」なんていうシャーマンチックなことも請け負っていたのかもしれませんね。

おとぎ話に出てくる魔女って、何の罪もないピュアな人間に対して悪いことをする悪役みたいになっちゃってますが、ホントは、大地の恵みをいただいて、人を癒すような、そんな役割をしていたのかもしれません。

時には、訳のわからない実験をして、人々に煙たがられたりとか、好奇心いっぱいの子ども達に実験を邪魔されて、いさめたりとか、そういう「ちょっと訳わかんなくて怖いけど、なんだかわかんないけど、すごい人」みたいなスタンスでなんとなく村人達とも共存していたのではないか、なんて思ってみたり。

どちらにしても、「自然」により近しい存在としての「魔女」というスタンスがあるような気がします。
自然って、なかなか人にはコントロールできません。
豊かな恩恵を与えてくれるかと思えば、突然牙をむきだしにして、私たちに襲いかかる・・・
随分前にインナーチャイルドカードの15番「狼」のところでも書いたかもしれませんが、そういう訳のわからなさに対する恐怖、みたいなものを「魔女」が体現しているような気もします。

コントロールするっていうことだけを至上目標にしていていいのかな、って思ってみたり。その辺りは、再考していく時代に入ったのかも、しれません。

キリスト教の台頭によって、土着の民間信仰みたいなものが、「魔女」の中に集約されて、「善きもの」と「悪きもの」の対立項が生まれ、「悪きもの」が徹底的に、攻撃された、なんて、書こうかな、と思ったけれど、そう単純なことでもないのかもしれませんね。

ラプンツェルのドラマの始まりは、やっぱり「勝手に取ってきちゃった」っていうところにあるのかな、と思ってみたり。

人の営みは、自然なくしてはありえません。
「勝手に取ってきちゃってること」も多いかもしれない、というより多分ほとんどそうです。
そのことにもう一度、意識の光を当ててみる必要があるような気がした今日この頃なのでした。
(もはや、インナーチャイルドカードの考察とは何の関係もないな・・・(笑))
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by sound-resonance | 2015-01-18 18:00 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

ラプンツェルその3

意外に長く続くことになっちゃったラプンツェル、今日はその3です。
前回までの記事はこちら→
ラプンツェル
ラプンツェルその2

嫉妬の炎によって塔を追い出されたラプンツェルが追いやられた場所が砂漠です。

砂漠、日本人にはちょっとわかりづらいんですが、精神的な成長をとげるための修行の場と言えると思います。
通過儀礼の場、とでもいうのでしょうか。
キリストが修行をしたのが、砂漠(荒野)ですね。
塔の中で、外的な情報を遮断されていたラプンツェルは、窮屈だったかもしれませんが、住居も食べものも与えられ、それなりに不自由なく暮らしています。自分で考えなくても生きていける環境なわけです。
それが、砂漠に追いやられた時、身体を維持するためのもの自分で獲得しながら、生きていかなければならない環境におかれます。砂漠だから、必要最低限のものしか手に入らなかったでしょう。
肉体が極限状態におかれた時に、人は自らの精神に向き合わざるを得なくなります。
ここで、ラプンツェルが、男女の双子を産むのは象徴的ですね。
女性性だけに特化されていた彼女の性が、男性性と女性性の両方に統合されていく、そんな感じがします。
「育てられるもの」から「育てるもの」への転換も読み取れるかもしれませんね。

ラプンツェルと王子が再会するまでに、王子の方もまた、森の中をさまよわなければなりません。
彼もまた、ラプンツェルと再び会うまでに、精神的な修行をしなければならないのでしょうね。
でも、彼がさまようのが、砂漠ではなく、森であるというのは、象徴的だな、と思います。
森って、ここも日本人の感覚とは若干違うかな、と思わなくはないのだけど、訳のわからないものがひそんでいる、闇、みたいな意味がシンボリックに隠されているのではないでしょうか。目がみえないっていうところも、それを象徴しているような気がします。
彼は、理性から離れて、訳のわからない闇、カオスの中をさまよわなければならないのです。

ラプンツェルが最初に塔の中で王子に出会った時、「あのお婆さん(魔女)より、この人の方がよっぽどかわいがってくれそうだ」と思って、彼を受け入れます。
この時点では、王子は、お婆さんよりも、自分をかわいがってくれる「保護者」でしかないわけです。

でも、砂漠で二人が再会した時には、ラプンツェルは、彼のために涙を流します。
なんとなく、ここに、初めて能動的なコミュニケーションが生まれているような気がしますね。

そして、再び王子の目が見えるようになって、二人は幸せに暮らすのです。

で、結局、私の身には何が起こってしまうんでしょうね・・・・・・(笑)
カードは様々な象徴を含んでいて、あるタイミングでそのどこに自分がシンクロするか、フィットするかっていうのは、その人それぞれに違うと思います。なので、ラプンツェルのストーリー通りの出来事が私に起きるとは思えませんが、ざっと洗い出してみたストーリーの中から自分にシンクロしそうな部分をもう少し探求してみようと思います。というのか、何日か分に分けて書いていたここ数日のうちにその概要がみえてきたような気もしますが・・・
これって、本当に解釈のしようだな、と思ってみたりもします。要は自分がどうとらえるか、ですね。
確かに大変な状況ではあるんだけど・・・・
でも、それがこれまで出会ったことのない、新しい状況への扉であるとするならば、喜んで受け入れてみたい、とも思うのです。
現実的には、王子様がやってきてほしいものですが・・・・結局そこかい!(笑)

途中で母親にとってかわられて、うやむやになっちゃった
「魔女」についても、次の機会に、もう少し書いてみたいと思っています。
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by sound-resonance | 2015-01-12 18:33 | 音・色あれこれ | Comments(0)

ラプンツェルその2

なんだか、先に関係のない記事を載せてしまい、で、ラプンツェルはどうなってん?って感じでしたが・・・(笑)前回の続きです。

この前は、ラプンツェルのあらすじをざっと書いて、魔女、感じ悪っ!!でもホントにそうか!?というところまででした。(→前回の記事

確かにお話の中での悪役は魔女です。
でも、ホントに魔女が悪いのか。


最初に盗んだのは、誰?

夫は、病気になってしまうくらい隣の魔女の畑に生えているラプンツェルを食べたいと欲する妻の願いをなんとか叶えようと、魔女の庭にしのびこみ、一度は見つかることなく、ラプンツェルをゲットします。

最初に盗んだのは、夫婦の方。

しかも、それを食べた妻、感謝して満足するならまだしも、もっと食べたい、もっと欲しいとのたまう。
仕方なく、夫は再度魔女の庭にしのびこんだところで、魔女に見つかる。
夫のいろいろ言い訳の末、魔女は、「じゃあ、ラプンツェルはあげるから、その代わり産まれてくる子どもをおくれ」と夫に申し出る。
野菜と人間の子どもの交換、が、果たして釣り合いの取れた交換なのか、というところは置いておいて(笑)魔女の申し出に、夫は後先考えずOKしちゃうわけですから、契約は立派に成立しているわけですね。

そして、契約どおり、魔女は産まれてきた女の子をゲットしました。

ラプンツェル(野菜)と引き替えにゲットした子だから、ラプンツェル。
今度は、盗まれないように、高い塔で大切に守り育てましょう、みたいな。

そう考えると、魔女、そんなにご無体な方ではないような気がしてきます・・(笑)

さらに不思議なのは、産まれてきた女の子を魔女にさらわれた夫婦の記述がその後一切出てこないということ。

魔女は女の子をさらっていきました。で、おしまい。

さらわれた方の夫婦が歎き悲しんだ、とか、なんとか自分たちの子どもを取り戻そうとした、とか、ラプンツェル(野菜)を欲しいなんて言うんじゃなかった、と妻が猛烈反省したとか、一切記述がない。

隣に住んでるのに!?
あんなに欲しいと願っていた待望の子どもなのに!??

童話でちょっと気をつけないといけないのは、グリム兄弟が、伝承の民話をアレンジしている可能性がある、ということ。

継子いじめ、についても、いじめるのが、実の母親だったら残酷すぎるから、継母にしておこう、というアレンジがされていて、元々の伝承では、実の母親が子どもをいじめるという設定だったということがあったりします。

これは、あくまで推測にしかすぎませんが、もしかすると、ラプンツェルを「塔に閉じこめた」のも、魔女ではなくて、実の母親だった、かも、しれない。

もし、そうだとすると、この物語、見え方がちょっと違ってきます。
望んで望んで産まれてきた待望の赤ちゃん、誰にも取られないように、大切に育てましょう。
そこまではいい。守られて、ラプンツェルは、類い希なるピュアな娘に育ちます。
でも、娘が思春期を迎えた時、母親は、娘を「塔」に閉じこめる。でも、閉じこめても閉じこめても時期がくれば、娘は外に出ていかなければならないのです。

魔女(母親)は、なぜ、ラプンツェルの長い髪を切って、彼女になりすまして王子をわざわざ塔に上げてから、彼を突き落とさなければならなかったのか。
「もう、ここに、ラプンツェルはいないよ」と塔の下で告げればいいだけなのに、どうして、それではすまなかったのか。

さきほど、グリム童話が、伝承の民話をアレンジしている可能性がある、と書きましたが、家庭で子ども達に読み聞かせしてあげれるように、セクシャルな部分は童話の中から消し去っているというアレンジもあったりします。

原作の中では、王子とラプンツェルは、日が暮れてから会うことに決めました。という記述しかないけれど、ラプンツェルは、砂漠で双子を産むわけですから、まあ、やることはやっちゃってる大人な関係なわけですね(笑)

で、これはかなり踏み込み過ぎの憶測でしかありませんが、魔女(母親)は、ラプンツェルの代わりになろうとして、王子に拒否されたんじゃないでしょうか・・・・

「髪の毛」が出てくるのは、なかなかに象徴的です・・・・
なんだかんだいって、髪は女の命、ですからね・・・・(笑)
(ということを、髪の毛を切ってからひしひしと感じている私ですが、それの話はまたの機会に・・・(笑))

原作では、王子はもはやそこにラプンツェルがいないということを嘆き悲しんで自ら塔から落ちてしまうっていう設定ですが、拒否された魔女(母親)が王子を怒りのあまり突き落としたのかもしれないし、あるいは、拒否した王子が自ら塔の上から飛び降りたのかもしれない。

若さ(女性としてのセクシャリティ)は、もはや親の世代にはなくて、娘の世代に交代している。
今まで一心同体だと思っていた娘が、実は自分とは別の一個の個体として存在していて、セクシャリティはそこに移動している。

なんだか、この前にも「嫉妬」の話が出てきたような気がしますが、ここにも嫉妬の課題が隠されているような気がするのです。
ラプンツェル、「青々とした菜」という記述があります。原作(たぶんドイツ語だと思いますが)ではどんな表現になっているのか
わからないけれど、青と緑って、ほとんど表現上ほとんど区別がないから、生き生きした「緑」の菜、です。

嫉妬の炎によって塔を追い出されたラプンツェルが追いやられた場所が砂漠です。

じゃあ、砂漠って何?
というところで、長くなっちゃったので、つづく・・・・
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by sound-resonance | 2015-01-08 21:34 | 音・色あれこれ | Comments(0)

世界結晶年

もう去年の話になっちゃいましたが、2014年って「世界結晶年」だったんだそうです。

世界結晶年2014

普段から石が好きな私の手元には、時期を問わずいろんな石がやってきますが、去年は、特にいろんな石が私の手元にやってきたように感じていました。

世界結晶年だったから?まさか、ね(笑)

普段は、それほど考えたこともなかったけど、石って、必要な人のところに意志を持ってやってくるのかな、って思うような子がやってきたりとか。

よく、家具職人さんとか、楽器を作る人やなんかが、木と相談して、家具になってもいいよ、とか、楽器になってもいいよ、って答えてくれた木を選んで切ってくる、なんて話も聞きますが、ホントにそうか!?って懐疑的な部分もなきにしもあらず、でした。

石に関しても、流通の過程で、「貨幣的価値」がついて、素人の私は、それをお金を出して買うわけですが、それって人の営みであって、石自体は人間に対して何も対価を求めてないし、ましてや、人に何かしてあげようとか意志持ってやってくるなんて、ありうるのかぁ???みたいな。
欲しいっていうのは、結局は人間のエゴじゃん、とか。(いや、そう自覚しておりますが(笑))

でも、そうであってくれたら、それにまさる喜びはないな、なんて思うんです。
昔、小笠原で、イルカと一緒に泳いだことがあるけれど、イルカみたいに人間に対してフレンドリーな木とか、石とか、あるのかもしれない。

石が好き、という話をすると、「石と話できるんですか?」って聞かれたり、最近では、「この人、石とお話できるんですよ〜」って紹介されちゃったりして、困ったな、なんて思ってました。いや、ホントに、単に石が好きっていうだけで、石と語ったりはしません・・・・(笑)

でも、ちょっと石とのつきあい方も変わってくるかな、なんていう予感もあったりとかして。

私は、石が大好きなので、私の手元に来たら、大切にすることを保証しますよ。なので、フレンドリーな石さん達、どうぞ、お越しくださいね。ただし、破産しない程度に、ね(笑)
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by sound-resonance | 2015-01-07 07:07 | その他 | Comments(0)

真っ白!

2015年1月3日、私の初詣は、長野県の戸隠神社でございました。
普段は、まずは、地元の神社に参拝するのですが、まだ行けてなくて、戸隠が初詣になっちゃいました。

戸隠?長野???えっ?私、なんでまた戸隠?

関西在住の私にとっては、少々(かなり!?)遠い場所です。

なんだかよくわかんないまま、年明け早々の夜行バスにて早朝長野に到着。
そこからは、友人運転の車に便乗し、どこを走ってるのか、どこに向かっているのかわかんないまま戸隠に到着。

真っ白。

雪で、どこが参道なのか、どこを歩けばいいのか、わからない(笑)
それでも、なんとか中社にはお参りすることができました。

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その後、奧社へ。

ここもどこが道なのかさっぱりわかりません。
道なき道を行き、鳥居の前まではかろうじてたどりつきました。鳥居の上にも雪が層になって積もっちゃってます。

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しかし、そこからは進入禁止の文字が・・・
2キロ向こうにあるのであろう、奧社にむかって、鳥居の前でご参拝。



雪まみれになりながら、駐車場までもどってくると、急に風が吹いてきて、粉雪がぴゅーぴゅーと風に舞いました。
よく来たね、っていう神様からのメッセージだったのかもしれません・・・・(笑)

それにしても、一体なんだったんだろう・・・・
戸隠神社って、数年前から気になってた場所で、行ってみたかったからこそ、今回話に乗ってはみたものの、このタイミングでのご参拝で、2015年の幕があがるとは予想だにもしなかった展開。
しかも、真っ白で、奧社にも行けなかったし・・・・

それでも、何か意味があったのかな?

ま、人生、意味のあることばっかり起きるとも限りませんけどね。
意味のないこともいーっぱい起こります(笑)
未だに狐につままれたような気分でもあるから、どこぞの誰かさんのいたずらだったのかもしれません・・・・(笑)

まあ、何か意味があったとしたら、そのうち、謎も解けるかな?

今度は、夏のさわやかな時期に、奧社にもご参拝してみたいと思います。
自分の足で、一歩一歩地面を踏みしめながら、ね。

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ちなみに雪のない戸隠神社(奧社)はこんな感じ→戸隠神社HP
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by sound-resonance | 2015-01-06 22:01 | 音・色あれこれ | Comments(0)