緑の衣の貴婦人

 先日「ブーリン家の姉妹」の項で、緑色と嫉妬について書いていて「緑の衣の貴婦人」のことを思い出しました。
 「緑の衣の貴婦人」は、C.S.ルイスの「ナルニア国物語」第4巻「銀のいす」に登場する魔女(実は蛇)です。ナルニア国物語については、映画にもなったので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
 彼女もまた「嫉妬の女」あるいは「ないものねだりの女」です。
 彼女はまず、ナルニア国の王子リリアンを自分のものにするために、彼の母親を殺してしまいます。そして、彼に魔法をかけて、彼女だけが彼の理解者であり、味方であり、彼女なしには、彼は生きられないのだ、と信じこませます。彼は、もはや『女のエプロンのひもにわゆえられてる大きな赤んぼ』です。
 彼女に魔法をかけられているリリアン王子は、夜中自分はのろいによって恐ろしい蛇の姿になって暴れ狂うので、銀の椅子にしばりつけられているのだ、と信じて(信じこまされて)いますが、実際には、夜の間は王子は正気に戻っているのであって、恐ろしい蛇なのは、魔女の方です。
 このとらわれの王子を助けに来たのが、人間の子どもである、ジルとスクラブ、そして、ナルニア国の沼人、泥足にがえもんでした。
 この3人が、リリアン王子を銀の椅子から解放し、救出した時、魔女は、魔法の緑の粉を使って、ナルニア国なんてないんだ、と信じこませようとします。

 『まあね、正直に申し上げれば、それはただのうそっこですよ。みなさんがお小さければ、うそっこをして遊ぶのもいいでしょう。でも、このほんとうの世界、ここだけがこの世でただ一つの世界であるわたくしの国から、何かをまねして想像しなくては、うそっこもなりたたないじゃありませんか。でも、あなたがたは、子どもだといっても、もうそんな遊びをする年ではないでしょ?
(中略)ナルニアはありません。地上の世界はありません。空も太陽も、アスランもありません。そしていまは、ベッドにはいることばかりですわ。そしてあしたから、もっとりこうになって、いいくらしをはじめましょう。でもいまはまず、ベッドにいくことよ。眠ることよ。ぐっすりと、やわらかい枕で、おろかな夢など見ないで、おやすみなさいな。』
 
 最終的には、泥足にがえもんが身体を張って、魔女の魔法に打ち勝つのですが、実際に「ないもの」「まやかし」だったのは、魔女の国の方でした。
 彼女の帝国であった「夜見の国」は、「この世の奥底」ビスム国に住む地霊達にとっては、地上に近すぎ、地上に住むナルニア国人にとっては、地中で住みづらく、どちらにとっても中途半端です。夜見の国には、元々はナルニア国人であるリリアン王子の他には、とらわれて無理矢理彼女のために労働させられていた地霊達しかいなかったわけですから、結局のところ、誰のための国でもなかったわけです。そもそも魔女は蛇だったわけですから、貴婦人の姿でさえ、仮の姿、幻です。
 緑というのは、大変難しい色で、ちょっととらえどころのない色ともいえます。
 三原色ではないという意味で、当然といえば当然なのかもしれませんが、天然の染料には緑色は存在せず、新鮮な緑葉で緑を出そうとしても、茶色にしか染まらないのだそうで、必ず青と黄色をかけあわせないと、緑色は出せないそうです。
 草木の葉の緑は、生きているからこその緑であり、それを固定(支配)しようとすると、瞬間にして消え去ってしまう、生命はゆらぎそのものであり、絶妙のバランスは、固定されたところには存在しえません。私達は自分をも含めて、何も支配できない、緑の楽園は、支配しないことでしか存在しないのかもしれません。
 まやかしでつくられた幻の帝国を「支配」しようとした緑の衣の貴婦人が、それに失敗したのは、当然だったのかもしれませんね。

「銀のいす」(19661) 『』内の文章は、本文より引用させていただきました。
 
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# by sound-resonance | 2010-04-01 23:33 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

笑う赤ちゃん



 うちの子です。
 ・・・嘘です(笑)

 「赤ちゃん」ってどうして「赤ちゃん」って言うんだろう?素朴な疑問からネットを検索していて、こんな動画を見つけました。
アメリカに住むイーザン君、9ヶ月(2007年当時)。バカ受けです。笑い転げてます。発見してから何回も見てるんですが、その度についついつられて大笑いしてしまいます。本当にかわゆいですね〜。
 Wikipediaによると、「赤ちゃん」の語源は、分娩の際に陣痛の圧力で胎盤内の血液が新生児の体内へ絞り出されるため、新生児が多血症気味となり、皮膚色が赤く見えることから、とのことですが(他の象徴的な意味もあるような気がしますが、それはまた改めて・・)、狭い産道を通って大変な思いをして赤ちゃんってこの世に生まれてくるんですね〜。お母さんも大変ですが、赤ちゃんも大変です。でも、イーザン君は、好奇心の塊。この世に生を受けて、パパに出会って、こんなに面白いことが待ってて本当に良かったね、って言ってあげたくなります。
 笑うという行為は身体の中に光を取り込む作業です。太陽神経叢(腹の辺り、色でいうと黄色の領域)がきらきら輝いて、あなた自身にエネルギーが満ちるように、いっぱい笑いましょうね。イーザン君がそのお手伝いをしてくれますよ。
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# by sound-resonance | 2010-03-27 23:30 | 音・色あれこれ | Comments(0)

コマラが来日中

 今、サウンドレゾナンスの創始者で、私のお師匠である、コマラが日本に来ています。4月第2週あたりまでの滞在期間の間にセッションや、授業がもりだくさんです。
 お師匠といっても、彼女は全く権威的な人ではなくて、サウンドレゾナンスも、「私の言う通りにやりなさい」というのではなくて、必要最低限の共通テクニックは押さえつつ、後は自分の直観を信じて自由にやりなさい、とおっしゃって、「先生」というより、人生の先輩っていう感じ。なので、敬愛をこめて、「コマラさん」とか「コマラ」とか呼んでいます。時には、「コマラちゃん」って呼んでることも(笑)年上の方なんですけどね。
 今日は、コマラの個人セッションを受けに行ってきました。
 普段は、私がセッションギバーとして、クライアントさんのボイスプリントを録らせていただいていますが、私自身も、コマラや、同期の皆さんにセッションをやってもらったりして、自分自身を見つめる機会をいただいています。
 サウンドレゾナンスのセッションはクライアントさんとの共同作業です。私はセッションのナビゲーターであって、私自身がクライアントさんを変えるわけではありません。気づきを得て、結果的に変わっていかれるのは、クライアントさん自身です。クライアントさんが、「ああっ!」という気づきを得られる瞬間に立ち会えるのは何にもかえがたい喜びです。
 私自身も、サウンドレゾナンスに出会ってから、どんどん変化(進化?だといいけど(笑))しています。日々出会う人達にしても、毎日会う人も、久しぶりに会う人も、一度きりしか会わない人も、刻々と変化している。
 だからこその「一期一会」なんだなあ、と改めて、気づく今日このごろなのでした。
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# by sound-resonance | 2010-03-25 18:02 | サウンドレゾナンス | Comments(2)

七色マカロン♪

 
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 先週ひょんなきっかけからご縁をいただいて、長野までセッションに行ってきました。なかなか体育会系のノリで、体力的には過酷でしたが(笑)みなさんとても熱心にサウンドレゾナンスについて興味を持って話を聞いてくださって、とても有意義な(有意義すぎる?(笑))時間を過ごすことができました。スタッフのみなさま、セッションに来てくださった皆様、ありがとうございました。
 最後にみんなでチャクラレゾナンス瞑想をやったのですが、善光寺の仏様が「何やってるのかなあ?」とニコニコしながら様子を見にきてらっしゃいました。いや、ホント。私は普段主に聴覚でモノをとらえるタイプなので、ビジョンが見えることは滅多にないし、円座になって座っている前の人の残像がまぶたに焼き付いていたのであろう、という科学的な説明もできることは重々承知の上で、あえて断言しちゃいます。それに・・見に来てくださってた!って信じる方がわくわくしますしね!

 さて、長野といえば、前述の善光寺、そして、善光寺門前といえば、八幡屋礒五郎の七味唐辛子ですね。と偉そうに言ってる私、実は長野に行くまで、八幡屋礒五郎さんを知らなかったのですが、長野県民にとって、唐辛子といえば、ここ!なのだそうです。ちなみに日本三大七味唐辛子のひとつが、ここ、八幡屋礒五郎だそうですよ。
 帰り際にセッションに来てくださった方にお土産にと、「七味マカロン」をいただきました。七味唐辛子の「七味」がマカロンになったという不思議系スイーツ。でも、開店1時間程度ですぐに売り切れてしまうという超人気商品だそうで、わざわざ朝から行列に並んで買ってきてくださったそうです。
 そんな貴重なマカロンのお味は・・・美味しかった〜!!
 目で見て楽し、食べて美味しい、幸せ気分でひとつひとつ大切にいただきました。色のセッションに行って、七色のマカロン、なんて粋なプレゼント!ホントに感謝です、ありがとうございました。
 こんな風に、美味しいものに滅法弱い私(笑)美味しいものの食べられる所であれば、どこへでもでかけて参りますので、気軽に声をかけてくださいね!
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# by sound-resonance | 2010-03-24 20:41 | 音・色あれこれ | Comments(0)

生業(なりわい)の美しさ

 滋賀県出身の染織家、志村ふくみさんを知ったのは、確か中学生の頃、国語の教科書に載っていた桜について書かれた随筆からでした。

 「まだ折々粉雪の舞う小倉山の麓で、桜を切っている老人に出会い、枝をいただいて帰りました。早速煮出して染めてみますと、ほんのりとした樺桜のような桜色に染まりました。
 その後、桜、桜と思いつめていましたが、桜はなかなか切る人がなく、たまたま九月の台風の頃でしたが、滋賀県の方で大木を切るからときき、喜び勇んででかけました。
 しかし、その時の桜は三月の桜と全然ちがって匂い立つことはありませんでした。
 その時はじめて知ったのです。桜の花を咲かすために、樹全体に宿っている命のことを。一年中桜はその時期の来るのを待ちながら、じっと色を貯めていたのです。
 知らずして、私はその命をいただいていたのです」
                (志村ふくみ「語りかける色」より)

 このエピソードは度々いろいろな所で書かれているそうなので、私が以前読んだものと全く同じかどうかはもはやわかりませんが(実際ちょっとだけ違うような気も)子ども心に、なんて美しい文章だろうと、ひどく引きつけられたのをよく覚えています。
 それから長い間、志村さんが植物の命をもらって絹を染め、織り上げた着物を見てみたいものだと思い続けていましたが、実際にお目にかかったのは、2004年、随分大人になってからのことでした。
 彼女の作品には「生業の美しさ」があります。「生業」とは、その行為自体が直接稼ぎとなるもののことをいうそうですが、小さいお子さん二人を抱えて離婚され、織の道に入り、これで食っていかねばらないという切羽つまった状況の中で、自然と向き合い、数多くの失敗を重ねながら、自然と自らの体験から学び、一つ一つの植物から命そのものの色をいただくことに、葛藤し、感謝し、何万回と縦糸に横糸を通しトン、トンと打つという気の遠くなるような単純作業を繰り返し、一反の反物を織り上げる、そうやって出来上がった着物は、彼女が費やした時間や命そのものが織り含められているはずなのに、不思議に重苦しくなく、どこか軽やかで、涼しげで静けさをたたえていて、人が生業を通じて昇華し、その人自身が限りなく美に近づいていく、その様がかいまみえるような気がします。
 志村さんはあくまでも染織がご専門ですが、文章にもその作品(=人)の美しさがよく表れていて、だからこそ、子どもだった私に鮮烈な印象を残したのでしょうね。
 生業によって表現されたものが何であれ、それは、生活そのものであり、その人そのもの。とても怖い、ですが、それを引き受けていける大人に少しでも近づいていきたいものです。

 桜が一年をかけてためた色を放つ季節がやってきます。大切に鑑賞しましょうね。
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# by sound-resonance | 2010-03-23 18:18 | 観る・読む・聴く | Comments(0)