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虹の解体と占星術

先日、ヘレンケラーの「私の生涯」を孫引きしましたが、その時読んでいた出典元がリチャード・ドーキンス「虹の解体」。
リチャード・ドーキンズといえば、日本では「利己的な遺伝子」が有名ですね。
「利己的な遺伝子」私は読んでいないので、詳しい内容は知りませんが、進化論を遺伝子の観点からとらえたもの。人間の「肉体」は「利己的」な遺伝子が種を後生に残していくための単なる乗り物に過ぎないという論旨に、人生には、目的も使命も何もない、みたいなニュアンスを読み取って、なんだか救いのない衝撃を受けた方も多かったみたいです。
「利己的な」というのは、比喩的な表現で、必ずしも遺伝子そのものが意志をもって、自分だけが勝ち残るためにわがままにふるまう、みたいな意味で使ってあるわけではないようですが、一般的な感覚からいうと、「利己的」と聞いてしまうと、なんだか、勝ち残るためにはなりふりかまわず手段を選ばない遺伝子に自分自身が乗っ取られちゃったみたいな感覚になって、殺伐とした気分になっちゃうのもわかるような気がします。

さて、私が今回読んだのは、「利己的な遺伝子」ではなくて、同じ著者の「虹の解体」という本。「いかにして科学は驚異への扉を開いたか」という副題がついています。
訳者のあとがきによると、タイトルの「虹の解体」というのは、詩人モーツの言葉に由来していているのだそうです。キーツはニュートンを、虹を物理学的に解体し、光のスペクトルとして説明してしまったことによって、虹の詩的側面を損なってしまったという理由で嫌っていたとのこと。でも、それはむしろ逆で、ニュートンが虹を解体したことによって得られた新しい世界観によってこそ、地球、宇宙に対する「センスオブワンダー」が喚起され、それが本当の「詩性」の源となるべきものだ、という考えから、書かれたのがこの本だとのこと。
色について探求している私、何かの参考になるかな、と思って正直「利己的な遺伝子」の著者だと気づかずに読み始め、なんだか惹きつけられない注意力散漫なまんま、斜め読み感覚で読了してしまったのですが、その中で、「占星術」が悪の権現、エセ科学、人の心を惑わす「迷信」の代表、のように書かれていたのが個人的には面白かったです。

なぜなら、私、今まさに西洋占星術を習いに行こうと思っているから!(笑)

私自身、今なぜ、星占い?なぜ?何故に??という感じもありつつ、でも、やっぱりここでちゃんと習っておこう、という思いの方が強くなっての決断だったのですが、このタイミングで、ドーキンスからのまさかのダメだし(笑)でも、逆に私がどうして星占いを今習おうと思ったのかを自分の中で考え直すよいきっかけになりました。

音(音楽)のことを勉強していると、そのルーツの一人としてピタゴラスが出てきます。
ピタゴラスは、宇宙は壮大で美しいハーモニー(調和)を奏でており、それは、シンプルな数(数の対比)で表現されうると考えていました。数字は、彼にとって特別な意味をはらむものでした。人間は宇宙と一体であり、宇宙のハーモニーの秘密を知ることは、人間を知ることにもつながりました。
音楽でいうと、彼の考えたピタゴラス音律が、今の12音階の着想の元になっています。
「天球の音楽」を探ることは、天文学や数学と切っても切り離せない関係にあり、その意味で、「科学」のひとつだったんですね。

占星術そのものは、ピタゴラスが考案したものではありませんが、ピタゴラスのこんな思想を受け継いだギリシャ人が、人を知るために星の動きを見るツールとしての西洋占星術を発展させていったのではないかと思います。

ピタゴラスが考えた「天球の音楽」は完璧であり、シンプルな数字で表現されるべきものでした。
実のところをいうと、ピタゴラス音律で12音階を考えていくと、1オクターブとして出てくる音は基音とぴったり「調和」しません。一緒に奏でると、なんともいえない不協和音が出てしまうというのか、耳障りな「うなり」が出てしまい、そのズレのことを「ピタゴラスコンマ」と言うのですが、ピタゴラス自身は、そのズレを認めなかったらしいです(あくまでも伝説ですが)。ズレを認めてしまうことは、宇宙の完璧性を否定することであり、彼の宇宙に求める美的センスがそれを許さなかったのでしょうね。

その頑なさが、きっと、今認識されているところの、少なくともドーキンスが属するところの「科学」から攻撃されてしまう理由の一端をみせてくれているような気もします。確かに西洋占星術が「発明」された当時は、天体は完璧なハーモニーを保っており、人間は、その天体のミクロ版でしたから、星の動きから知った人間の運命は「鉄板(ってまだ言うのかしら・・・(笑)」であって、流動性のない固定的なものであったかもしれません。

実際のところ、ピタゴラスの音律は微妙なズレを生じさせ、天体は、完璧なハーモニーなど、奏でていませんでした。後に、「科学」は「音楽(芸術)」と袂を分かちました。人間と天体には何の関係もないという現代的科学観の中にあっては、西洋占星術は確かに「ナンセンス」かもしれない。

でも、占星術は、「人を知るためのツール」として今でも有効だと思うのです。
絶対性・完璧性というのが、「幻想」であることを知った上でみれば、宇宙と人間が一体であるという思想そのものは、今も十分に魅力的だと思うのです。その思想にロマンを感じる人が圧倒的に多いからこそ、未だに「信じてないけど・・」といいながらも、雑誌やネットで定期的に発表される星占いを楽しみにしている人達がたくさんいて、ニーズが廃れないのだと思います。
確かに、すべてを占星術に求めることはナンセンスです。自分の運命のすべてを星占いにゆだねて、占い師の言葉に一喜一憂し、占い師に高額の報酬を支払うくらいなら、自分で運命を切り開く方がずっと建設的です。でも、いくら科学が「詩的」であっても、「利己的な遺伝子」という言葉が、一般的な人々を絶望に陥れたのと同じくらいには、逆に、星占いが、人に希望を与える言葉を人に提供できる可能性もあるのではないでしょうか。

完璧ではないけど、「かいまみること」はできる。そして、ツールは使いよう。本当は、「科学」自体も、そんなものだと思うのですが、科学に完璧性、全体性という「幻想」を抱いている人がまだまだ多いような気がして、むしろ、個人的にはそちらの方が危険なような気がしますが、いかがなものでしょうか。

そのあたり、「虹の解体」よりも、次に読んだ「錬金術とストラディバリ」という本の方が共感を得られたのですが、その辺は、またの機会に。

by sound-resonance | 2015-04-15 18:30 | 観る・読む・聴く