錬金術とストラディバリ

「虹の解体」のところで、「錬金術とストラディバリ」という本が興味深かったということをちらっと書きましたが、今日はその本について、少し。
この本は、「ピタゴラスが発見したとされる音程と比率との関係から始まり、中世において神の完全性の象徴としてとらえられていた音楽と科学が、初めはおずおずと、しだいに大胆に、神とのつながりを失っていく(あるいは、そこから解き放たれていく)過程を描き、そこで重要な役割を果たした望遠鏡や顕微鏡といった道具をクローズアップ」(以上訳者あとがきより引用)しています。
私たち人間を覆うように存在する宇宙(マクロコスモス)が、人間の中に拡がる小宇宙(ミクロコスモス)に呼応していると考えられていたピタゴラスの時代には、「科学」と「音楽」は同じカテゴリーの学問としてとらえられていました。学問を追究するものは、天体を中心とする自然のありようを観察し、そこからシンプルで美しい調和を見いだそうとしました。ニュートンの登場以来、「科学」と「音楽」は切り離され、世界を理解するうえでの科学の優位性が確立していくとともに、観察対象がマクロからミクロの方に転換していく様が描かれてあって、その辺りがとても興味深かったです。
ニュートンというと、万有引力を発見した人で、これまでの混沌とした未開の世界に明晰性と秩序をもたらした「近代科学の父」みたいな印象がこれまでありましたが(この印象自体が科学優位の見方ですが・・(笑))、同時に最後の錬金術師でもあったんですね。本の中では、彼が実験に使用していた「道具」として「蒸留器」が出てきますが、これは、自然界の生成過程が際限される小宇宙、ピタゴラスから始まって、中東経由でルネサンス期にヨーロッパに伝わった、科学と音楽が袂を分かつ前の「(音楽を含む)科学」を示す象徴的な道具であり、ニュートン自身も、最初は自然界に存在するモノから「黄金」を作りだそうと努力した錬金術師の一人でもあったわけです。(そして、色と音の相関関係についても研究していたそうです)彼の発見した万有引力の法則、マクロコスモスにおける惑星のダンスを指導するのとまったく同じ仕方でミクロコスモスにおけるリンゴにも適用されるという認識は、この小さな世界のごく普通の出来事は、直接に宇宙全体という大きな世界とつながっているという、錬金術から救い出された信念にもとづいていました。
ニュートン自身は、自らが説明できたのは、簡単に感知できる比較的大きな運動に関する限りでの、目に見えるこの世界の体系であるが、運動する粒子が小さくて感知できないような、その他多くの局所的な運動が存在する、と述べていたそうです。そして、「もし誰かが運よくこれらすべての運動を発見することができれば、その人物は、ものの力学的な原因が関わる限りにおいて、諸物体の本性全体を明らかにすることになるといってもいいだろう」とも言っています。ここで、錬金術は「化学」になり、モノを形づくるより「小さい単位」への探求へと方向性を変えていったのです。そうやって、分子が発見され、原子が発見され、原子でさえも、まだ原子核と電子に分解できることがわかり、今現在の最小単位「素粒子」まで行き着きました。(さらに、素粒子は、1次元の極々小さな「ひも(弦)」でできているのではないかというひも理論が研究されています)
本の中では、音楽の「道具」としてのバイオリンが取り上げられていますが、1600年代に作成されたバイオリンの名器、ストラディバリの音色が、どんなに細かい「科学(物理学)的分析」をもってしても、未だに再現できていないということが書かれています。使われている板の素材、造形の曲線の角度、ニスの混合のレシピ・・・ひとつひとつの項目についての分析はかなりの精度で進んでいても、それを総体としてくみ上げた時、決してストラディバリにはなりえていないのです。著者はこの例で、あるシステムの記述と、そのシステムのその時点での振る舞いは、そのようなシステムの将来における振る舞いを正確に予言するのに必要な理解を生むはずだというニュートン科学よりも現実はもっと複雑で、ずっと制約があるものであり、ニュートン流の世界観の根底にある欠陥、ほとんど目にみえないひびが明らかになってくると指摘しています。
モノはどんどん細かく細分化され、素粒子までいきつきましたが、一方で、ハイゼンベルクによって、単一の実験において、運動している粒子の位置と速度の両方を絶対的に正確に測定することは不可能であるという「不確定性原理」が発見されてしまいました。私達が何かある一面に「注目」すると、それ以外の要素(面)は正確には測定できないのです。何度やっても誰がやっても同じ結果が出るという科学の根本原理がくつがえされ、科学は万能さを失ったのです。
それでは、科学が全くの無意味なものかというと決してそうではなくて、私たちは現に科学の恩恵を受けています。電気なしの生活はもはや考えられません。ただ、知っておかなければならないことは、「科学は現実に対するわれわれの知覚を定量化する」ということです。
著者は言います。
「われわれは見る。われわれは見るものについて考える。われわれは見てきたものの肖像を創造するー見いだすのでもなく、発見するのでもなく、つくりだす。それはただ一つの真実ではなく、真実のうちのひとつであり、描かれたものでも、そのまちがった複写でもない。それは本物であるーわれわれがそれをつくってきたのである。それは『どんな実人生よりも激しい』われわれの経験を抽出する。われわれは、描写することを可能にする知識をとらえようとする。なぜなら、描写のなかに、われわれは啓示を求め、ときにはそれを見いだすからだ。究極的な啓示は、われわれをわれわれ自身に、われわれが誰で、(最も広義の意味で)どこに住み、どのようにこの道にやってきたかということについての認識に導くものである。」
一端袂を分かった科学と芸術、「創造する」という意味において、再び人が生きていくためのツールの両輪として、バランスよく時には融合しながら、協働していく必要があるような気がします。たぶんというより、おそらく絶対、科学と芸術って両方とも必要なものだと思います。というよりも、著者のいうように、科学の方がが芸術の一形式なのだと思います。そんな認識がもっと拡がっていってほしいものですね。
日本語訳で400ページを超える分厚さで、科学と音楽の間を行ったり来たりしながら構成されているこの本、他にも示唆的な部分がいっぱいありましたが、今回はこの辺で。

「錬金術とストラディバリー歴史のなかの科学と音楽装置」トマス・レヴェンソン著 中島伸子訳 (2004)
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by sound-resonance | 2015-04-27 21:17 | 観る・読む・聴く | Comments(0)