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The other wind

暦の上では立春を過ぎ、早くも1週間以上たちましたが、いよいよ寒いですね。大阪でも、外気温1度だとか2度だとか一ケタ代の気温が続いています。今日は特に風も強く寒くて、ロングのダウンジャケットでも太刀打ちできないくらい。こうなったら、最終手段、必殺秘蔵の超ロングダウンコートを出さねばならぬか・・・っていうか、大阪でそこまで防寒ってどうなの!?とも思いますが、私滅法冬には弱いんですな・・・もはや流行遅れらしいムートンのブーツをファッションではなく実用という意味で手放せずにいます・・・・そんなこんなで、極力外出を控え家にこもりがちで、先日の三連休も結局は家でまったりしてしまいました・・・・行ってみたい場所なんかもあったんですが、初日に雨が降ったので出鼻をくじかれた感じです。

というわけで、ルグインの「ゲド戦記」を読み返したりしていたんですが、22日にルグインさんが亡くなった際に4巻目の「テハヌ(日本語版は帰還)」について少し触れましたが、この巻はサブタイトルが「ゲド戦記最後の書」となっていて、ルグインさんも4巻目を書き始めた時には、これが最後だと思って書いていたようです。テハヌとは一体何者なのか、という最大の謎を残しつつ、ゲドとテナーが老いて力を失いながら、「普通の」生活を続けていくというところで「おしまい」だと思っていたらしい。この時点で書かれていたのは現実世界の「今現在」と同じで、この先の未来がどうなっていくのか、というのはルグインさんにもわからなかったのだそうです。

その後、6、7年後に、アースシーを舞台にした物語をまた書かないか、というオファーがあって、彼女は再び書き始めました。ホントの最後の書「アースシーの風」の中で、4巻目でキーワードとなっていた「ゴントの女性」というのが、かつて大巫女であったテナーではなく(テナー本人は最初から私じゃないと否定していましたが)、テハヌでした。テハヌは、ハブナーの王、レバンネンに請われて竜と言葉をかわし、竜が人間達の村を襲うことをやめさせます。そして、自らも竜の姿となって旅だっていくのです。

ところで、ゲド戦記最後の書「アースシーの風」の原題は「The other wind」となっています。日本語訳の段階で、当初はタイトルを「新しい風」としようとしていたものを、ルグインさんが「新しいではない」とコメントしたことから、最終的に「アースシーの風」となったようですが、この「other wind」という言葉も意味深だな、と思ってみたりもします。「別の風」、「他の風」ではタイトルにはなりづらいかもしれませんが、確かに「新しい風」ではないですね。私たちは認識していないかもしれない、注目していないかもしれないけれど、風はこれまでなかったものではなく、すでに吹いていたものなのです。

テハヌは、人間であり、竜でもある存在でした。彼女は人間と共に生き、物語の最後には、竜と共にもうひとつの風に乗って飛んでいってしまいました。この物語の中では、竜と人間は昔同じものだったと語られています。その後、竜と人間は別々の道を歩みますが、再び竜と人間が同じ世界に来る時代はくるのでしょうか。竜の道を選ぶものは「別の風」に乗って飛ぶ必要があるのでしょうか。ルグインさんが時代の変化を感じ取ってゲド戦記の4巻目を書かずにはいられなかったように、最後の物語もこの世の時代にリンクしているとしたら、この物語りから読み取れる未来ってどんなものなんでしょうね。竜のとらえ方、生と死の世界のとらえ方など、西洋と東洋の違いを感じたりもする物語ですが、その違いの部分も含めて、読み込んでみると面白いかもしれませんよ。



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by sound-resonance | 2018-02-13 22:32 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

ルグインさんとゲド戦記

いやはや、寒いですね。昨日は大阪でも雪が降りました。積もるというところまではいかず「雪が舞った」くらいですが、とにかく寒いです。透音も、すっかり風邪を引いてしまい、関節、筋肉が痛いです・・・、ん?私、風邪とインフルエンザの違いがよくわかっていないんですが、関節とか筋肉が痛い全身症状って、インフルエンザなの!?熱はそんなにないんだけど・・・、ま、暖かくして安静にするにこしたことはないんで、週末はおこもりしようと思います。みなさまも、十分暖かくしてお過ごしくださいね。

それはさておき、22日にアーシュラ・ルグインさんが亡くなられたそうです。アメリカの、SF.ファンタジー作家さんですが、「ゲド戦記」が一番有名かもしれません。

「ゲド戦記」は、長らく3部作として知られていましたが、3部作が出版されてほぼ20年を経て、第4部が出版されました。当時大学生だった私は、卒業論文のテーマがなかなか決まらずもんもんとした毎日を送っていました。そんな中、友人から「ゲド戦記」の4巻目が出たという情報をゲット、これはもうこれを題材にするしかない、と決めたものの、なかなか日本語訳が出ない・・・どうも、日本語版の出版が予定よりも遅れていたようなのですが、タイムリミットが近づく中、今さら他のテーマに変更するわけにもいかず、原著で読まざるをえなくなり、必死・・・なんとかかんとか卒論の締め切りには間に合ったものの、なんだかさんざんな内容になってしまい、なんとか及第点はもらえたものの、消化不良のまま卒業、ということになってしまいました。

今でも、時々本当は卒業の単位が足りなくて、仮免許状態、単位取得の執行猶予が迫っているのに、学校に通えていない・・・みたいな夢を見ることがあります。もしかして大学を卒業したと思ってるのは私だけ?と思って、わざわざ実家まで、卒業証書の現物を確認しに行ったことも・・・(笑)、もちろん卒業証書はちゃんとあるので、卒業できているんですが、それだけ不本意な感じが残っているということだと思います。

ゲド戦記は、すでに3部作としての一定の評価を受けていた作品だったので、ルグインが新たな物語を興すのではなく、あえて「ゲド戦記」の続編として4巻目を発表したところに、ルグインなりの、現代社会における問題意識と、それに対する解決の方向性が書かれているのだ、と期待して、わざわざ4巻目を卒論のテーマに据えたんですが、当時の私は、ルグインさんの問題意識はなんとなく感じとったものの、そこに「解決策」は、見いだすことができなかったのです。

それは、私の英語力が足りないからだ、と思っていました。大学卒業後やっと出た日本語訳も、今さら感プラスなんとなく怖くて、読めずにいたんですが、それから数年後に読んでみると、私の理解はあながち間違っていなかったのかもしれないと思うようになりました。

日本語版では、4巻目のタイトルは「帰還」となっていますが、原題は「Tehanu(テハヌ)」です。
テハヌとは、親に焼き捨てられようとした女の子。火の中に投げ入れられたので、ひどい火傷を負っており、顔にもケロイドが残っています。彼女は、2巻目の主役であるテナーに引き取られます。1巻目の主人公、というか、この物語全体を通してのタイトルとなっているゲドは、魔法の力を失い、故郷に帰ってきて、テナーと暮らし始めます。もはや魔法の力を持たないゲド、もはや大巫女ではないテナー、そして、火傷を負った少女、テハヌ。テハヌが、人間と龍をつなぐ架け橋となる子どもであり、次の時代の鍵となるようなことは暗示されますが、彼らを襲う悪意に対して、圧倒的な力を持って対抗し、打ち倒すカタルシスはこの物語にはないのです。

ゲド戦記の5巻目、「アースシーの風」が出版されたのは、4巻目の出版からさらに10年あまり後、物語は、4巻目で長い間宙ぶらりんのままでした。作者であるルグインの中には、4巻が発売された時に、最終巻の構想があった可能性もありますが、結論、未来の見えないまま、それでも、3巻で終わらせてしまうことへの作家としての納得のいかなさから、4巻を書かざるをえなかったというのが本当のところではないでしょうか。

2006年にはスタジオジブリによって映画化されて、賛否両論がわき起こりました。というか、原作を先に読んだ人からはいい評価を聞いたことがありません・・・私も、見ないまま批判するのもと思って鑑賞しましたが、大半の方がおっしゃっているように、また、原作者自身も述べているように、原作とは違った作品であると思ってみたほうがいい作品です。

映画の中心となっているのは、原作でいうと3巻だと思うんですが、どうして4巻目から初めて登場するテハヌを出しちゃったんだろ・・・テハヌの顔の火傷の様子が、ピンク色で色分けされただけの表現だったのからして違和感がありました・・・最後にドラゴンに変身した彼女に世の中を救わせたかったのはわからなくはないんですが、それでは、あえて一旦完結したかのようにみえていた3部作の扉をあえてこじ開けて続きを書き始めたルグインの意図が全く反映されていないのです。

まあ、映画から「ゲド戦記」を知ったという方も多いかもしれないので、そういう方は是非原作を読まれることをおすすめします。

正直なところ、卒論に取り上げたという意味で、ゲド戦記は思い出深い作品ではあるんですが、好きか嫌いか、ということでいうと、また違った感想があったりして・・・フェミニズム色濃い作家だといわれることも多いルグインさんの逝去の知らせに、ひとつの時代の終焉、そして変化を感じずにはおれません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


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by sound-resonance | 2018-01-27 15:10 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

究極の治療法と登山

前回の続きです。

前回、特定の宗教というのは、何かしらの「気づき」のための入り口にすぎないのでは?ということを書きました。

「治療」・「ヒーリング」にも同じことがいえると思います。

以前、随分昔ですが、気功や鍼灸など東洋医学系の治療家さんとお話している際に、おっしゃったそのままの言葉ではないかもしれませんが「自分は誰もに効き目のある究極の治療法が知りたい。これぞという方法が見つかっても、それが劇的に効く人と、全然効かない人がいるのが不思議だ」というようなことをおっしゃっているのを聞いたことがあります。その時には、その方を満足させることのできる返答をとっさにはできず、聞くだけ、になってしまったのですが、うまく説明できないながら、なんとはなしに違和感があったのをよく覚えています。

その方にはお返しできなかったんですが、返事として有効かもしれないな、と思いついたのは、山の例でした。

ま、どこでもいいんですが、わかりやすく例えば富士山に登りたいとします。目指すは、富士山の頂上、これに関しては、誰もが共通の目標として認識できるものであろうと思います。でも、そこに行き着くためのルートというのは1つではないんですね。

ちょっとググってみると、富士山の登山ルートは、4つあるそうです。すなわち「吉田ルート」「須走ルート」「御殿場ルート」「富士宮ルート」の4つ。私は、この4つのルートを制覇したわけではないので、定かではありませんが、より初心者に向いているコースであるとか、より景色が綺麗なルートであるとか、より短時間で頂上にたどりつけるルートであるとか、ルートによってそれぞれの特徴があるのではないか、と思います。登山者は、それぞれのルートのそれぞれの特徴を先人達の体験談を元にした情報を見ながら、どのルートで登るのかを決めるわけです。

また、富士山の例でいうと、4つのルートはいずれも富士山の5合目あたりから入っていくので、5合目までは、公共機関なりマイカーなどで上がるのが一般的みたいですが、1合目から5合目までも、ゆっくりと自分の足で登る、という方法もあるわけです。

で、どのルートを使っても、もし頂上までたどり着くことができれば、それは当初の目標達成。富士山登山成功、になるわけですね。

ヒーリング、治療にも同じことが言えるのではないか、と思います。何かしらの症状の治癒、回復が目的であるというところに関しては、その症状を持つ人すべてにとっての共通の目的、目標であると思います。でも、治癒、回復までの過程、方法(ルート)というのは、人それぞれなのではないでしょうか。

登山において、「登山時間が短い」ということが特徴のルートというのは、大抵は急な角度の坂道を歩いていかなければならないことになります。それには、相応の体力が必要となるでしょう。ある程度の登山経験、テクニックが必要かもしれません。

「治療」ということでいうと、早く治りたい、あるいは治したいと思うのが人情かもしれませんが、それ相応の体力のない方にとっては、スピーディな治療がその人には全く適当ではないこともあるのです。

また、天候などによって、最適だと思われたルートの変更を余儀なくされる場合もあると思います。人間の身体は有機的なもの。天候と同じで、刻一刻と状況を変えていきます。絶対的な決定版の治療方法などありえないと考えた方が真実に近いのではないでしょうか。

さらに人間には、個人個人によってこれまでの経験によって蓄積された思考や歴史があります。身体の症状だけとってみれば最適だと思われる治療方法も、何かしらのその人の持つ思考やその思考から派生する感情によって、効力を発揮しない場合もありうるのです。

というわけで、多種多様な治療法が存在しうることについては私の中ではさほど疑問ではないのです。その人それぞれが、その人の状況に応じた方法を見つけることができればいいな、と思うのみでございます。ただ、特にいわゆるスピリチャルの世界には「探すこと」そのものが目的にすりかわってしまっている方もちょくちょく見受けられます。そういう方々をターゲットにした悪質なスピリチュアル商法が蔓延しているのもまた事実としてあるところ。スピリチュアルコレクターになっていないか、振り返ってみるのも時には必要かもしれませんね。


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by sound-resonance | 2018-01-11 20:52 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

無我の体験

年あけから早くも三分の一近く経過し、そろそろお正月ムードも急速に抜けてきつつある今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか?4日が初出勤で、4、5日と2日出勤したら、また三連休、という会社員の方も多かったかもしれません。

成人式は関西はあいにくの雨で、晴れ着を着た新成人の方には少し気の毒な感じもありましたが、気持ちはフレッシュ、晴れ晴れとした気持ちで成人式を迎えられた方も多かったかもしれません。成人式が1月15日だった頃には、とんど焼きやなんかも15日にやっていたような気がして、15日くらいまでお正月という気分がありましたが、今は、どんど焼きも成人式の日程に合わせて行うところが多いようです。そう思うと、お正月も短くなっちゃいましたね(苦笑)

私的には、大晦日から元旦にかけて謎の腹痛に見舞われ、強制断食から突入した2018年、寝込んでいた時には後味の悪い夢まで見るし、なんか幸先悪いじゃん、とかなり落ち込みモードだったんですが、ありがたいことに今は腹痛も寛解し、おかゆから始めておかずも食べれるようになりました。ちなみに、年があけて初めて食べたのがおかゆだったので、7日の七草がゆはスルーしました(笑)

ブログの方も、正月早々、マザーテレサの心の闇といういささかディープな話題から始まりましたが、今その流れで1冊の本を読んでいるところです。バーナデッド・ロバーツさんの「無我の体験」という本。

当初「自己喪失の体験」として最初発行され、長らく絶版になっていたものの復刻版です。「自己喪失の体験」を図書館で借りて本で手に入れたいと思いつつ、絶版になっていて手に入らなかったので、復刻版が発行されてすぐぐらいに手に入れていましたが、そのままにしていたもの。マザーテレサは神との合一体験の末、神の不在に苦しめられましたが、著者であるバーナデッドさんは、神との合一、そして神の不在を体験し、そしてその後にやってきたことを体験を元に本に書かれています。

一度昔読んではいるものの、新訳だからか、初めて読むような感覚で読んでいて、まだ読みかけなので、全体の感想は読み終わってから書こうと思いますが、厳格なキリスト教の家で育ち、修道院で修道女として過ごしたこともある著者が体験したこと、そして体験を通して気づいたことが「禅」にも通じると感想を書いている方がおられる点が興味深いです。今の私は個別の宗教にはさほど興味がないのですが、究極的な体験のところで、宗教の枠を超えていく感じというのは面白いな、と思います。

たまに、自分の信じる宗教が絶対他の宗教よりも優れている、というのか、他の宗教では救われなくてもこの宗教であれば救われる、自分はこの宗教に入って救われた今とても幸せである、だからあなたにもこの宗教のことを知ってほしい、といったような方がいらっしゃいます。それはそれで、真実なのだと思います。でも、特定の宗教を持たない私からすれば、特定の数ある宗教の教義というのは、入り口にすぎないのではないか、とも思ったりもするのです。

というあたりで続く

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by sound-resonance | 2018-01-09 21:29 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

マザーテレサと神の不在

以前、もう随分前の話になりますが、大人になってからクリスチャンになった友人が「マザーテレサ」のメッセージの入った日めくりのカレンダーをくださったことがありました。年の入っていない日めくりのカレンダーなので、毎年繰り返し使えるというもの。日めくりなので毎日めくらないといけないんですが、無精故に、いつからかめくるのを忘れたりして、カレンダーとして機能していなかったところ、年が変わったので、急に思い出した次第。

マザーテレサ。1979年にノーベル平和賞を受賞。1997年に亡くなってから、異例の早さで2016年には列聖され、バチカン教会から聖人と認定されました。列聖というと、普通は何十年、何百年とかかるイメージがあるので、自分と同じ時代を生きていた人が、「聖人」になるというのが、なんとも不思議というのかびっくりした記憶があります。

一生を信仰に捧げた献身愛に満ちた聖女、そんなイメージのあるマザーテレサ。ところが、彼女が生前心の中に闇を抱え、神の存在を信じる心の揺らぎを感じ苦悩していたことが明らかになり、世界中に衝撃が走りました。彼女が霊的な指導者である数名の神父あてに出した数十通の手紙が出版されたことによって、その苦悩の様子が広く一般にも知られることになりました。

18歳の時に修道女としてインドに渡ったマザーテレサは、当初カルカッタの学校で地理と歴史を教えていました。彼女に転機が訪れたのは彼女が36歳の時、ダージリンに向かう列車の中で「修道院を出て貧民街に行き、貧しい人々への奉仕活動に携わるように」との召命(しょうめい)を受けたことがはじまりでした。彼女の前にイエス・キリストが現れ、彼女に向かって語りかけてきたのです。彼女は当初とまどい、これまで通りの生活をさせてほしいと願いますが、イエスはそれを聞き入れません。イエスに身も心も捧げるというのなら、私の願いを聞き入れるように、とイエスは彼女に迫るのです。ダージリンからアンソールに移り、瞑想の日々を送りながら、そんなイエスの言葉を彼女はじょじょに受け入れ、学校を出て、貧しい人達の中で生活する決心を固めます。

その当時の様子を「アサンソールでは、まるで主(イエス)が私に自分を丸ごとくださったようでした。しかし甘美で慰めに満ち、主と固く結ばれた6カ月はあっという間に過ぎてしまいました」と述べています。

彼女は再びカルカッタに戻り、貧しい人々の住むスラム街での奉仕活動を始めます。しかし、その後、どれだけイエスがのぞんだ奉仕活動を続けても、キリストとの甘美な月日は二度と来ることはなく、彼女は心の中に深い闇と、癒されない渇望を抱くことになったのです。

このような神と出会い、まるで神と一体となったような体験(合一体験)と、その後の神の不在体験は、キリスト教における神秘体験として知られているものと考えられるので、マザーテレサのみが体験したものではありません。しかしながら、マザーが神の不在をこの世の生がつきるまで抱き続けていたことは衝撃的であり、心の痛むことですね。

不謹慎かもしれませんが、マザーの語ったイエスとの合一体験は、乙女の恋愛体験そのもののようにもみえます。彼女の体験は、まさに神の花嫁になること、神との結婚だったのではないでしょうか。6ヶ月の蜜月は過ぎ、イエスは彼女の元を去り、還らない人を待ちながら、彼女は彼の言いつけを必死で守りながら暮らすのです。うーん、そう書いてしまうと、イエスってひどい男ですね・・・・・

ま、それは冗談にせよ、彼女の苦悩は、神を「外」に設定したことにあるのではないか、などとも思ったりもするのです。彼女はあくまで奉仕するものであり、与えられる側の存在でした。いや、そんなことはない、彼女は多くの貧しい人に与え過ぎるほど与え、今でも彼女の言葉は多くの人の胸を打ち、感動を与えている、彼女は与える人だ、と人々は言うかもしれません。本当にそうなのだとも思います。でも、彼女の中の見解では、彼女自身は神、もしくは神の子ではなく、神、あるいは神の子はあくまでもイエスであり、彼なくしては彼女はまた存在しないのです。

でも、イエス本人はそんなことを伝えたかったのかな?、と個人的には思ったりもするのです。自分が神の子であるように、あなたがたも同様に神の子である、イエスはそう言いたかったのではないか、そう思ってみたりもするのです。最初はイエスの意志であったとしても、その意志がマザーテレサの意志そのものになったのであれば、彼女はそこまで苦悩する必要はなかったのではないでしょうか。ま、あくまでも、外側からの意見ではありますが。

という辺りで、次回はマザーテレサのホロスコープについて触れてみたいと思います。


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by sound-resonance | 2018-01-05 20:38 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

ちょっと怖い歌

先日記事にした再生したろうそくなんですが、早速使ってみると、ちゃんとろうそくとして火が灯り使えました!が、やっぱり芯がかたよっていたので、ロウの溶け方が偏ってしまい、芯が燃え尽きるまでにロウがたくさん残ってしまいそうです。ま、また再生すればいいんですが、色を混ぜてしまったので、煮とかしたらとんでもない色になりそう(笑)再生はある程度のろうそくの残りがたまらないとできないので、次の再生まで時間があきそうですが、いろいろと試行錯誤してみたいと思います。

ま、それはいいんですが、ろうそくに火を灯すのは好きなんですが、「ロウ」という言葉はほんのり怖いです・・・・たぶん理由は2つあって、ひとつは「ロウ」という言葉で「蝋人形」を思い出してしまうから。

随分昔ですが、若い頃どこの国だったか忘れましたが、ヨーロッパ方面を一人旅している時、あまりにも暇だったのでなぜか蝋人形館に入ってしまい、えらい目にあいました。中は暗く、入った瞬間に後悔したんですが、後のまつり。人はまばらで、私の前にカップルが歩いていたんですが、くっついて歩くわけにもいかず、ひとつの部屋から次の部屋に移る度にドキドキ。

私が蝋人形館に入ったのは後にも先にもこの時一度きりなので、私の入ったのが一般的な蝋人形館なのかは定かではありませんが、暗い歴史的場面の連続で、基本的にこういう類いの施設って、「怖がらせる」ためにあるのだな、ということを痛感しました・・・・(笑)

ちなみに、館内で、日本人が2名いましたが、誰だと思いますか?


正解は、一人目は、オノヨーコさん、そして、二人目?は、腹切りの侍でした・・・・この日本人二人がとなりあわせに無造作に置いてある・・・シュールすぎる風景・・・ざっくり日本のイメージってこうなんだ、と痛感させられもしたんでした・・・(笑)


怖い理由のもうひとつは、「勇気ひとつをともにして」という歌。NHKの「みんなの歌」で子どもの頃ラジオからこの歌が流れてくる度にものすごく怖い思いをしていました。今でもタイトルを書くだけでも怖いです・・・ギリシャ神話のイカロスの話を題材にしているこの歌、イカロスがロウで固めた鳥の羽で大空に飛び立つものの、太陽に近づきすぎてロウが溶けて落下して死んでしまう、このくだりが超怖かった、しかもこのイカロスの行為が「勇気あるもの」として語られているのが、子ども心にもなんだか変だなという違和感があり、余計に怖かったのだと思います。

歌の意図としては「勇気」の部分だけを受け継げという意味なんでしょうが、勇気出して、ロウで固めた鳥の羽で飛んでみろ!と言われているようなそんな気分になりました。え!?落ちるのに!??みたいな・・・・・うちの家は朝からNHKのラジオを流している家だったので、みんなの歌でこの歌が取り上げられていた期間中朝から半強制的にこの歌を聞かねばならず、かなりのトラウマを背負うことになりました・・・

この歌を怖いと思っている人って案外多いみたいで、ネットで調べてみるとトラウマ曲のかなりの上位に上がってきます。そうか、みんな怖いと思っていたのね。

無鉄砲さが時に新しい風を運んでくることもありますが、それは「勇気」とは関係のないことだと思います。熱が加われば、固化していたロウは溶け出す、そのことを十分に理解した上で、ぎりぎりのかけに出たのであれば勇気かもしれないけれど、イカロスは忠告をきかずに翼と自分の力を過信しただけなので、それは勇気とは言えないのです。

しかし「ロウ」という言葉で、ウン十年前のトラウマがよみがえってくるとは・・・・感情面に直接訴えてくる、歌って本当に影響力が大きいですね。


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by sound-resonance | 2017-12-27 20:25 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

静かな時間

個人的には、特定の宗教の信者ではない、あえていうと、無宗教な感じなんですが、よく神社や教会には行ったりします。それって信心深いという意味ではなくて、何を求めているか、というと「静けさ」なのだと思います。「静か」だという意味で、美術館とか図書館も好きなんですが、時代の流れで、美術館も図書館も必ずしも「静か」な場所ではなくなりつつあり、神社や教会が文字通り最後の「聖域」だな、と思うこともあります。

時間があるとたまに行ったりするのが、玉造の「聖マリア大聖堂」。日本画家の堂本印象さんの「聖母子」の壁画があります。


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ここの聖母子像は、日本画家が描かれたということもあるんでしょうか、とても和風な感じの聖母子です。
西洋的な聖母マリア様がブルーのケープ(マント)をまとっている姿で描かれることが多いのに対して、ここのマリア様は、錦のような衣をまとっておられます。菊、桜、紅葉など様々な植物が着物の柄として描かれています。特に朱色が和な感じを強調している感じです。朱色をオレンジ色と言ってしまうには語弊がありますが、ブルーとオレンジということでいうと補色関係なのも面白いな、と思います。

お顔はすっきりとした理知的な感じで、優しげに描かれていることの多い西洋のマリア様に比べてやはりちょっと超越した感じ、仏顔に近い感じがするのも、日本画ならではだな、と思わせるところがあります。聖母子像の傍らには、玉造に縁のあるキリシタンである高山右近と細川ガラシャが描かれています。壁画には高山右近や細川ガラシャが生きた安土桃山時代の文化・風俗が反映されているのだそうです。

堂本印象さんは、ヨーロッパ各国の聖母子像を見て、作家がそれぞれの理想を絵の中のマリア様やキリストに託していることを発見し、日本には日本の聖母子像があってしかるべきだと信じたことからこの壁画を制作されたのだそうです。

他にも、こういった和風なマリア様が描かれた教会があるのかもしれないし、外国に行くと教会にはよく行くものの、日本に存在する教会の中にはあまり入ったことがないことに今さらながら気づいたんですが、個人的には最初にこの聖母子像を見た時、題材が洋、表現が和の和洋折衷な感じが斬新で、強烈な印象を受けました。背景が金箔、マリア様の衣装で目立つ色が朱色、とどちらかというと暖色系でまとめられている絵なんですが、この壁画に向かい合っていると、心がしんと落ち着いてくるのが不思議なところです。

でもそれは、教会全体の圧倒的な静けさの影響が大きいんでしょうね。ミサの時間には信者さんが集まってこられるんでしょうが、普段の教会にはお祈りに来られている方が数人いらっしゃったりはしますが、ほとんど人がいません。たまにシスターが用事で顔を出されても、祈りを邪魔してはいけないということでしょうか、いい意味でほおっておいてくださいます。

もちろん都会の中の教会なので、外の通りを行き交う車の音などは聞こえてくるんですが、人の声がしないというのが大きい。こういった静かな空間が一般に解放されているというのは本当にありがたいです。この静かな空間がいつまでも守られるよう願ってやみません。

さて、明日は冬至ですね!冬至といえば、かぼちゃを食べたり柚子湯に入ったりが恒例ですが、太陽の光の一番少ない日、太陽の光を浴びた作物でオレンジ色の光をいっぱい取り込みましょう。オレンジ色は、気持ちをリラックスさせ、豊かさをもたらしてくれますよ。
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by sound-resonance | 2017-12-21 21:21 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

ブルーでライトなヨコハマ

ひょんなきっかけである歌のフレーズが頭の中をぐるぐるして離れなくなるということがありますが、先日青色LEDのイルミネーションの話を書いて以来「ブルー・ライト・ヨコハマ」のメロディーが頭の中をぐるぐるして少々困っております(笑)

といっても、今の若い方はピンと来ないかもしれませんが、一応関西人の私、「街の光が、とても綺麗ね、ヨコハマ♪・・・・って、ここヨコハマちゃうしっ!」みたいな一人ボケ、ツッコミを何度も繰り返しております・・・一体この一人ボケ、ツッコミを何回繰り返したらこの「ブルー・ライト・ヨコハマ」の呪縛から離れることができるのか・・・・ま、悩んでいても仕方がないので、ここはぐいっと「ブルー・ライト・ヨコハマ」に詳しくなってやろうじゃないか、ということで、ちょっとググってみると、この曲って、1968年の12月25日に発売された、ある意味クリスマスソング!?とまでは言えないかもしれないですが、ウィンターソングなんですね。

さきほど、若い人にはピンとこないかも、と書きましたが、2009年に横浜市が開講150周年を記念して「ご当地ソングアンケート」を取ったところ、2位の「赤い靴」を大きく引き離して、ダントツ堂々の一位になったというから、今の若い世代にもけっこう知られた歌謡曲なのかもしれません。

作詞者の橋本淳さんによるとこの曲のイメージは「港の見える公園」から見える横浜と川崎の工業地帯の夜景と、カンヌ(フランス)の夜景の美しさを重ね合わせたものなんだそうです。カンヌの空港は滑走路が海に突き出ていて、海から陸地に向かって降りていく飛行機の中から見た夜景、海の青さに、強烈に心を奪われたのだとか。

それと、もうひとつ、ニューヨークの美術館で見たピカソの青の時代の絵画にも強烈な印象を受けたのだそうです。

しかしながら、曲の作られた当時の横浜の夜景は、カンヌの夜景のブルーやピカソのブルーとはかけ離れたものだったのだそうです。その寂寥感、それでもほのかにそこにある刹那でささやかな幸せにスポットを当てるようなイメージで生まれた歌だったんですね・・・横浜の街は、1968年当時から青色の光に彩られていたのかと思いましたが、そうではなく、むしろ、心象風景としての「ブルー」だったのかもしれません。

しかし、「ブルー・ライト・ヨコハマ」の背景に、カンヌとピカソが潜んでいたとは・・・ちょっとびっくり。

それにしても、日本三大夜景にも入っていないのに、この曲のせいで、ロマンチックな夜景の美しい街、みたいなイメージのある横浜。カップルで行くのももちろん、傷心の一人旅にも似合いそうな、そんなイメージがあるのは、やはり「ブルー」故でしょうか。1つの曲の与える影響って、大きいですね。


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by sound-resonance | 2017-12-19 21:57 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

聖なる予言

いやはや、寒くなりましたね!久しぶりに一日オフ日が取れたので、ここへ行こう、あれをしようと、考えていたものの、結局は一日家におこもり、あったかい部屋でぬくぬくぼーっとしてしまいました。振り返ってみれば、やっぱりお買い物に行けばよかったかな、ここに行っておくべきだったかな、とあれこれ反省するんですが、まあ、そこまでの吸引力がなかったということで、いいのかな、とも思います。タイミングがやってくれば、無理にでも扉って開かれていきますよね。

ということで、家でぼーっとしていた時にふと目についた本。たぶん、どこか旅先で、暇にあかせて街をぶらぶらしている時に見つけた古本屋さんで買ったものだと思いますが、旅先で読むことはせず、家に持ち帰ってそのままになっていたもの。「聖なる予言」、日本語版は1994年に初版が発行されていますが、原著はその1年前1993年に発行されています。いわゆるニューエージというか、スピリチュアルな内容なんですが、人間の意識の変革の過程を9つの「知恵」を探しながら体験し、学んでいく冒険小説のようなスタイルで書かれています。

主人公は長年音通の途絶えていた古い友人から突然の連絡を受け、南米ペルーで発見された古代文書について教えられます。そこには、人生の意義、これからの人類が進む意識の過程について書かれているといいます。主人公は、駆り立てられるようにペルーに向かいます。ペルー政府、および教会は、これまでの教義を否定する危険文書として、この古代文書の抹殺をもくろんでおり、古代文書の「知恵」を探す主人公も、数々の危険にさらされながらも、適時適所に導かれ、9つの「知恵」をひとつひとつ、出会った人達に教わり、体験し、学んでいくのです。

先日、ニューエージ風にいうと、時代は魚座から水瓶座の時代に移行していて、魚座の時代を象徴するのはイエス・キリストであるといった話をしましたが、この小説の中でも、キリスト教の教会(神父)が9つの知恵の書かれた古代文書を危険文書として抹殺しようとしている、古代文書の最大の「敵」として描かれているのが興味深いな、と思いました。冒険に敵はつきもの、敵が大きければ大きいほどはらはらどきどき引きつけられるので、この辺りはエンターテイメント小説としての演出としても成功しているなとも思うんですが、キリスト教会(神父)は、古代文書の知恵を迷える子羊である大衆を惑わす悪書として誤解していて、真実としてはキリスト教の教義をもおびやかすものではない、という説得を主人公はその友人と共に試み、この小説の中では失敗します。神父の側には、一人一人の人間がこれまでとは全く異なった意識に目覚められると、これまで教会としてまとまっていたものがまとまらなくなるという恐怖があるわけです。しかしながら、イエス・キリスト本人は、新しい意識の変革を遂げた初めて、あるいはごくごく初期の人間であり、それは「神の子」のみならず、誰にでもできることなのだ、といったことを主人公は古代文書を通じて学んでいきます。古代文書の知恵は、イエス・キリストの意志ともなんら矛盾するものではないのです。

この本が初めて出版されたのが1993年、ちょうど、インターネットが普及しだしたタイミングとも重なっています。この辺りから水瓶座の時代はじょじょに幕をあけたといえるのかもしれません。


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by sound-resonance | 2017-12-09 15:05 | 観る・読む・聴く | Comments(0)

赤と緑

旅先で、暇つぶしに読める本があればいいのに、と思ったところに見つけた古本屋さんで偶然出会った本。宇宙の起源から生命体が発生し、人類が誕生するまでの壮大なお話の中に色彩についてのお話がありました。

うまく要約できないので、興味のある方は本を読んでみていただきたいのですが、ざっくりいうと、生命体のごくごく初期段階に、「光合成」と「呼吸」というごく優れた2つのメカニズムが出現した。この2つのメカニズムの「祖先」は同一のもので、光合成は葉緑素、呼吸はヘモグロビンが担っているが、この2つの分子はほぼ同じ構造である。ところで、色素というのは、移動しやすい電子を持った分子で、生命構造に不可欠な鎖状分子の形成を促進する働きをする。色素が行う精妙な化学作用はほんのわずかのエネルギーしか必要としない。ヘモグロビンや葉緑素が赤や緑をしているのにはそのような理由がある。

色素は移動しやすいという特性によって、光子を吸収し、ある特定のスペクトルを反射(復元)することで、物質に色を与えていますが、同時に生命体が生命体であるために不可欠な構造を与えているのもまた色素なんですね。

植物は二酸化炭素を吸収し、光合成を行い、酸素を排出して生きています。私たち人間を含む動物は、酸素を吸収し、呼吸を行い、二酸化炭素を排出して生きています。この対になった同じ祖先をもつ二つの生命体の要となっているのが、葉緑素と、ヘモグロビンです。葉緑素は緑色、ヘモグロビンは赤色。緑と赤は補色関係で、ここでもこのふたつの分子が対であることを表しているように思えます。

色は、極めて合理的で効率的な生命の仕組みの現れでもありました。生物の世界は単色ではありえなかった。生命のあふれる地球に美しい色彩があふれているのも、また、必然なのです。

「世界でいちばん美しい物語」ちくま文庫(2006年)


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by sound-resonance | 2017-11-26 20:38 | 観る・読む・聴く | Comments(0)